運営委員紹介5.

私が古瀬かなこさんと初めて出会ったのはメーデーの直前、東京は神田錦町のYMCA会館で行われた演説会でのことでした。早くも初夏を思わせる暑い日でしたが、それは会場に立ち込める人々の熱気のためでもありました。広い講堂は労働者や社会主義者であふれ、メーデーへの期待と意気込みに満ちていました。 

しかし、演説が始まると会場の後ろに立っている官憲から「弁士、中止!」の声・・・次々に演説が中断させられていく中、「中止!」の声に従わず、演説を続ける一人の若い女性がいました。 

「検束しろ!」と怒鳴って演題に駆け上がる官憲。彼女は官憲の手を振り切り、ついにはYMCA会館の屋根によじ登って、最後まで演説を続けたのです。それがかなこさんでした。 

・・・嘘です。こんな風だったら愉快だなと思って、フレームアップ(でっち上げ)しました。 

私が初めてかなこさんと出会ったのはいつだったか定かではありませんが、気が付いた時、かなこさんは「路上の人」として存在していました。今でも年齢不詳ですが、少女のような雰囲気で堅苦しい言葉を使わずゆっくりとしゃべるかなこさんの街頭アピールには、不思議なインパクトがありました。 

この他己紹介を書くにあたり改めてご本人に確認したところ、初めて街頭での行動に参加したのは 2007 年、イスラエルのガザ地区への空爆に抗議する座り込みだといいます。初めてのデモへの参加は、その翌年の反G8デモ。 

きっかけは、アフリカを中心とする発展途上国への債務取り消しを求める団体「ジュビリー九州」主催のイベント「ロックオン!G8ナイト」のチラシを見たことでした。「こんな運動をやっている人たちが福岡にいるんだ!」と衝撃を受けたそうです。ちなみにそのチラシをデザインしたのが、いのうえしんぢ氏でした。 

そんなかなこさんを語る上で重要なのは、「サウンドデモ裁判」でしょう。この裁判は 2011年5月、脱原発を訴えるサウンドデモの参加者を先導するトラックが、事前に申請して許可が出ていたにもかかわらず、当日急に交通警察官から「このトラックを走らせることはできない」と妨害されたことに端を発します。さらに後日、道路使用許可申請のために提出していた図面を、警察が破棄していたことが判明しました。路上で表現する自由を守るために、かなこさんも原告の一人として裁判を起こします。しかも、弁護士なしの本人訴訟です。原告の方々の大変さは想像してなお、あまりあります。 

2015 年1月、福岡地方裁判所は原告の訴えを認め、福岡県中央警察署(=福岡県)に対し損害賠償を命じました。この判決は控訴審でも維持され、被告である警察側が最高裁への上告を断念したことで 2015 年9月に確定しました。 

実際の裁判の中では残念ながら読まれなかったそうですが、かなこさんはこんな意見陳述書を用意していました。抜粋します。 

「わたしはわたしの暮らしで精一杯です。毎日何かに忙しくて、仕事や将来や人間関係に悩み、あっという間に日々は過ぎていきます。だけど、世界の変化を願っています。これ以上、この歪の上に立っていたらまず、わたしの足元から崩れていく世界が見えるからです。だから、わたしはせめて『こうなってほしい』と思う世界を表現したいのです」 

そのようにして、今日もかなこさんは路上に立っています。 

(運営委員・日髙明子)